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黒牟田という地名の由来は、一部盛り上がった地形(”くろ”という)と湿地帯(”牟田”という)があった土地であったために付いたのではないかという説がある。応法という地名の由来は(もとは王宝と書かれていたが)、弘法大師の弘法からとられたものだという説がある。
日本で最初に磁器を作ったのは李参平といわれているが、中島浩氣著の「肥前陶磁史考」によれば、李参平が来日する以前にすでに黒牟田・応法地区では磁器が作られていたのではないかと考えられている。
その理由としては、李参平が来日した翌年に亡くなったと考えられる韓人の墓や、山辺田古窯跡の発掘調査により李参平が最初に磁器を焼いたとされる天狗谷窯より古い年代の磁器片が見つかっている。
藩の管理下では、作るものが決められていた。黒牟田は、型打角鉢および小判型皿が規定の製品であり、また、模様においても丸紋画だけに制限されていたが、後では有田皿山にも希にみるような染付物を制作した時代があった。また角鉢や小判型、六角、八角、桔梗縁六角、長角の隅切、あるいは額鉢には花鳥や山水を染付して、その隙間に青磁を流したのがあり、また角鉢や小判型には入念な素描画もあった。その中でも他山の追随を許さないものに二尺以上の大丸鉢があり、鯛型鉢においても二尺五、六寸まで制作されたのである。応法は神酒瓶(みきびん)、小瓶、油瓶等が規定の製品である。
藩の管理下では、質のいい陶石は得られなかったため周囲にある山から陶石などを探しだし利用した。こぶ山(主に陶石と思われる)や松山(主に釉石と思われる)には洞窟らしきものが発見されている。
また、応法には大神宮という神社があり、別名「磁山神社」と呼ばれている。これは、磁器を奉る神社であり、ここの御神体を移して今の「陶山神社」ができたという言い伝えがある。このことからも、李参平以前にこの地区で磁器が焼かれていたのではないかという説がある。
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